my name is ysi.

大学2年です。がんばります。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の続き

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。

されば天より人を生ずるには、萬人皆同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、萬物の霊たる身と心の働を以て天地の間にあるよろずの物を資り、以て衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨をなさずして各安樂にこの世を渡らしめ給ふの趣意なり。

されども今廣く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、 富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有様雲と泥の相違あるに似たるは何ぞや。

其次第甚だ明なり。實語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は學ぶと學ばざるとに由て出來るものなり。

又世の中にむづかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。其むづかしき仕事をする 者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分輕き人と云ふ。都て心を用ひ心配する仕事はむづかしくして、手足を用る力役はやすし。

 

諭吉の主張

「平等、今見てるけどそんなわけあるか!!」という諭吉の主張は何%くらいが知ってるんだろう、、、

 

これから調べるお

これからがっつり調べようとしていること

 

・アメリカの国家のこれからの経済政策
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・ドローンについて
 
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・Rippleについて
 
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金ない学生、カンボジア行くためにクラウドファンディングします。

「日本おわるんじゃね」と思ったツイート

 

最近こういうtweetを見ました。

 

 

 

 

 

 

 

それで、

 

 

こんなことを考えました。

 

 

でも、いくらこれだけ考えてもこれは2次データで思ったことなので、学生のうちに、自分の目で、自分の足で見に行かなければと思いました。やっぱり自分の目で見ないと気がすまない。

 

そこで、親に相談したところ

「海外行くなら自分で用意して行きなさい。うちはお金がないの!」

ときっぱり言われました。おじいちゃんおばあちゃん子なので本当なんだなあと、しんどかった。

 

お金貯まるの待ってたら時間かかります。意思決定→行動の速さが大切だとおもっている自分は、明確な意志があって海外に行きたくなったのは初めてなので「タイミングは今だ」と思いました。お金がないけど声を上げられるのが21世紀だと思うので、21世紀の性善説を信じて、クラウドファンディングをしようと思います。

 

 

 

クラウドファンディングする理由

 

やる理由はいくつかあって、

 

①自分の足でこれから日本に追いつく(抜いていくかもしれない)国を見に行きたい

 

②自分のマーケティング的な思考を試したいから

 

③何者でもない自分がクラウドファンディングで何かできるのか知りたい

 

です。

 

 

①について

どうやら日本には人がいなくなるようだし、地元を散歩していても人の少なさに驚かされることが多いです。肌感覚として人が少ないということもわかるし、どっかのデータを持ってきても人口は減ってる。

給料や年金を見てもどんどん減っていってるし、SNSでは苦しそうな人が多い。表面に目立っては出てきてないけれど、将来に漠然と不安を抱えてる学生も自分の周りにいる。

データやツイートではもう見飽きたから、自分の足で見に行きたいと思います。

 

 

②について

最近サントリーのCMが炎上しましたが、なぜ雪印の重ねドルチェのPVは炎上しなかったのかの原因を分析したり、ついこの前まで実施されていたブラックボックス展がなぜあんなに人気が出たのかを分析したりしてました。

今度記事にしますが、そういう分析をしていました。自分自身を市場にさらして、自分が考えうる全ての施策をうった結果、どれ程度効果があるのかを試したいと思っていました。もちろんSNSの広告が単価いくらでどれくらいのリーチして、、みたいな計算をした上で施策を打ちます。強いマーケターになりたいからです。

 

 

 ③について

クラウドファンディングはやりたいことを宣言して資金を集める場所です。資金を集める場所を利用して自分には何ができるか、知りたいです。もしこれが成功すれば、「金ないけど夢だけある」何者でもない学生がもっと声を上げられるようになるかもしれないし、自分自身がロールモデルになることもできるのかな、と思いました。企画して、熱くておもしろい学生がもっと増えれば楽しいかなと思っています。

 

 

↑これを試したい。

 

 

 

実際こわい

この挑戦はめちゃくちゃこわいです。自分を市場に晒すことは自分の価値を市場に問うことだし、これで失敗すれば自分の価値は無いと、そういうことになると思っています。

でも挑戦しなければ意識高いだけの人間で終わるし、選択を迫られた時にリスクを取れる人間でありたいと思うので、ビビってるけど行動に移し続けたいと思います。打てそうな施策はいくつも出しているので、これから見てて下さい。

 

 

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カチとヒトについて

色んなとこで言われるし自分でもそう思ってるのが、「世の中に価値を生み出す」とかそういうやつ。世の中は価値を出してお金をもらうという仕組みになっているらしいから、価値=お金=信用の構造は割と信じていた。でも、一回疑ってみた。疑ってみたら、それをこじらせて

「価値を生み出せないなら価値そのものになってしまえば動かずに生きていけるのではないか」

と考えてしまったのが間違えだった。哲学が始まった。

 

 

価値とはなんなのか、ヒトはカチに成り得た事があったのか

ここで注意したいのは、僕は「価値を生み出す」ではなく「価値そのものになる」ということに目を向けているということだ。価値そのものは目に見えない概念であって、価値は行動しない。目に見えないけど皆が認知していて存在するものだ。

 

価値そのものに近い用語を、脳内の世界史データベースから引っ張り出してみた。まずヒットしたのが王様だった。

  

王様・・・王(おう)は、おおむね国の君主(国王)を指し、その君主号である。また、特定の領土を持たずとも、ある部族や種族の長たる者を王と呼ぶ。転じて、ある特定の分野での頂点あるいは頂点に近い位置にある者、または物を指すこともある。(wikipedia引用)

 

王様はよく象徴として用いられる。でも象徴としての仕事はある。きちんと仕事をしないとそのうち市民に怒られてしまう。やりすぎてしまってギロチン台にかけられてしまう王様もいた。象徴としてのつとめがあるから、やはり行動しないといけない。価値そのものとは言えないなと思った。価値と象徴は違う。

 

 

その後、ヒトとカチが近かった概念として、ヒトを商品として扱った奴隷が出てきた。

 

 

奴隷・・・人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。(wikipedia引用)

 

奴隷は価値そのものとは全然違う。奴隷は買った人の”所有物”になってしまう。所有物になったらそれはモノで、価値という面で見ると労働力の極端なぼったくりだ。価値という概念には成りえない。 

 

 

どんなに偉い人でも、価値そのものになった人はいないんじゃないかと思うようになってきた。今度は、切り口を変えて人以外の「価値」を考えてみた。

 

 

ヒト以外でカチと評されるもの

人が価値そのものになるのが無理だと仮定するなら、価値と呼ばれるものは人に従属する概念なのだろうか。それで人が作った価値のことを考えてみたけど、全然従属していなかった。法とか文化とか慣習と呼ばれるもの。目に見えないし、法とか文化とか慣習は話さないしどこかに逃げてしまうこともない。しかし、存在してみんなが認知するものだ。

 

なんかおかしい。普通、創造されたもの(法とか文化とか慣習)は創造したもの(人間)に従属するものじゃないか。

 

法律だって誰かが考えたものだし、文化だって誰かが発起人になって人々が作ったものだし、慣習も人が決めたものだ。でも、創造したもの(人間)がそれらに従属している。

 

 

 カチという概念

価値という概念は人の上にも下にも属する、意味わかんないものだということはわかった。でも、自分自身が価値になることは未だに見いだせていない。人は価値そのものにはなれず、所詮「生み出すもの」にしかなれないのかなあと。

 

でも、人の上にある価値(法とか文化とか)と人の下にある価値(自分が作り出したもの)は同じ価値であるということをわすれてしまっている人が多い気がする。

 

同じ「価値」の定義であれば、生み出す存在として「価値は全てコントロールできる」と考えるか人は価値に従属するものとして「価値は全てコントロールできない」のどっちかだ。僕は本質は前者だと思う。法とか文化とか、今まで残っているものの殆どは人が人のために作っているものだと思う。

 

価値と人について考えたけど、人が価値そのものになることは今のところ見つからない。その代わり、価値と人の関係性を考えてみたら割と見落としがちな大事な価値観が見つかった。

 

こういう風に哲学をして戻ってくる時はいつもシンプルな答えで、今回の着地点は「ルールだから」という人ってなんか変だなあと思っていたことを言語化しただけだった。

先生が「ルールだから」と言ってることに対して感じる中学の反骨精神と同じものだった。

下流志向 2章「リスク社会の弱者たち」を読んだ|自己決定・自己責任論とは?

自己決定・自己責任論

下流志向の2章では、自己決定・自己責任論が主題で話が進んでいく。教育機関が「たくましく・しなやかな個」を目指すことで「リスク化・二極化」が進むことを喚起している。

 

リスク化とは、将来どのように生きていけるのかというのを見通せる可能性が低くなり、努力に対してのリターンがどれくらいになるのかの予測がつかないことにある。

 

二極化とは、努力するもの・努力せざるものの差が大きく開いていくということが挙げられている。

 

 

リスクに対する認識

リスクをテイクする、リスクをヘッジするという言葉がリスクという言葉にはよくつく。リスクをテイクするとは0から+を生み出すような言葉で、リスクをヘッジするとは0からーにならないように施策を打つという意味合いになる。

今の時代では、リスクをヘッジすることができてないと著者は言っている。リスクをヘッジするには1人では不可能であり、丁半博打で丁と半どちらにも張るという意味。+にはならないけどーをふせげればいいというのがリスクヘッジをする前提だ。

 

リスクに対する認識が、社会階層毎に変わってくるというのがこの話の要であろう。「学力そのもの」ではなく、「学力に対する信憑性」が社会階層ごとに変わってくると、その刷り込みが結果として大きな差を出すということだ。

 

学力に対する信用性は主に親からの刷り込みである。学力なんてなくても生きていけるという考え方、学力があればなんでも出来るという考え方どちらかの考えが子供を支配し、主に社会階層の高い親は前者を唱え、社会階層の低い親は後者を唱えるという。

 

 

リスクについて

前者、後者ともに唱える親がいることは間違いないだろう。しかし後者を唱える親は大抵の場合、どうしたらいいのかのロジックを持ち合わせていない。代替案はないが「私が生きてこれたから大丈夫だろう」というロジックで物を言っている。

人間は基本的に楽をしたいと思う生き物だ。子供も「それでいいのか」となって努力をしなくなる。親の刷り込みによって子供が努力しなくなるという現象は珍しくないことだと考える。選択肢が増えたが、根拠なしで話をしてしまう人が被る被害だろう。

 

 

 

構造的弱者の出現

リスクヘッジは集団として生き残るという目標に対して動ける人たちが受け入れられることだ。それはつまり一人で責任を取ることとは全く違い、自己決定し、自分で責任を取るというのはリスク社会が弱者に対して強要する生き方と言っている。

 

つまり、周りに助けられる構造(セーフティネット)が用意できない人は自己責任を押し付けられ、その生き方を強要することになります。戦後日本社会ではそんなことはあまり起こらず、誰か一人のリスクをより大きなコミュニティ全体が責任を負うという形でリスクをヘッジしてくれていた。

 

 

「迷惑かけてないんだから、ほっといてくれよ」

この言葉を言う若者はいくらでもいる。しかし、これにはもう少し複雑な意味が含まれている。「迷惑をかけてないんだから、」という言葉には「お前も迷惑をかけるなよ」という意味も含まれている。

迷惑をかけていないから何をしてもいいと言って自分の反省をせず、しかも後々助けとなるかもしれない外界との関係を自ら断っていることになる。構造的弱者は自己決定・自己責任論に踊らされ、リスクヘッジできなくなる。

 

 

学力低下は努力の賜物

構造的弱者は「自己責任」を掲げ、今現在の自分を正当している。学校での学力での成功を否定し、将来の自分よりも現在の自分を見つめることにより、自分の有能感をたかめている。しかもこれは、怠惰によってもたらされたものではなく、努力して自分らしさを見つけることで産んだものである。

 

 

 

「迷惑かけてないんだから、ほっといてくれよ」について

これについては、この言葉を言うやつの頭が悪いと考える。少なくとも存在するだけで相手の頭を悩ませているし、迷惑になっている。全ての基盤は与えられたものであるのに自己決定していると思いこんでいる。基盤がある上で使えるものは全て使うべきだと考える。

 

思考や感受性が貧しい者は弱者であるのは世の理だと思う。今の時代では構造的弱者だが、これが社会の産物かもしくは個人に帰依すると考えるのかは自由だが、私は後者だと考える。

 

 

yosui.hatenablog.com

 

下流志向 1章「学ばない子どもたち」を読んだ

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「それが何の役に立つのですか?」

本・下流志向では、あるキーワードが頻発します。子供達がよく言う「それは何の役に立つのですか?」という問いです。これは小・中学校で先生に対してよく言う言葉でした。この言葉には色々な意味が内包されているということを著者は述べていきます。

 

 

消費主体であることの危険性

「それが何の役に立つのですか?」という言葉は、下流志向では子どもたちが消費主体であることを象徴している。消費主体であるということを著者は危惧しています。消費主体であるということは、「私は時間というものを払います。そちらはなにを払ってくれますか?」という言葉・態度を学校で使用するということです。つまり、「見合ったものを提示しなければ買わないよ」ということを示唆していることになります。

 

タバコを吸う若者が、目の前に証拠があるにも関わらず「吸ってねえよ」と言うことや、がんばって授業を聞かない生徒がいるということは全てこの”消費主体”にあると言っています。

 

金の全能性

著者は子供が消費主体になってしまう原因を幼少期に金の全能性を知ってしまうことにあると論じています。スーパーやコンビニエンスストアで、金さえ払えば年齢や性別などは何も関係なく、同一のサービスを受けることができます。子供はそこで「普段とは違う経験」をすることにより、消費主体としての自己が形成されていくというのです。

 

労働主体というものもあるのですが、現代では電化製品が発達し、母親の仕事は減ったため、子供が何かを手伝おうとしても「なにもしなくていい」という指示が下ることがあるため、労働主体が育たず、消費主体としての自分が主になってくるというのです。

 

 

消費主体が教育まで影響する

何かを支払い、受け取るという行動に慣れた子供は、教育の現場でも同じことを言います。それが大人(先生や親)を困らせる事になります。

 

 

批評:消費主体であることは本当に危険なのか?

たしかに金の全能性を早期に知るということは子供が消費主体になってしまう危険性を秘めていると思いますが、悪いことだけではないと思います。大人が金の概念を知り、子供にたいしてマネーリテラシーを身につかせることによって、金を増やすための労働主体という風に転換できると思います。アメリカでは幼少期から金をもたせることによって金との距離を近づけるそうです。アメリカのGDPと関連があるのかは不明ですが、少なくとも消費主体になって嘆かれるよりもいいと考えます。

 

 

 

批評:消費主体としての質問が知恵を生むかもしれない

消費主体の子供の質問は基本的に「これをどうしてやるのか?」という質問です。これはもう少し進むと、「これでない選択肢はないのか?」という問いに変わります。「もっと楽に、これと同じ効果をもたらす方法」を考え出した子供は、全てから物事を学びだします。孔子は、君子は全てから学ぶといった格言を残しています。消費主体であったとしても、考えを深めればかなり有効な知恵に変換されると考えます。

 

 

不快という貨幣

下流志向では、消費主体の人が集まる家庭では「不快」が貨幣として扱われていると論じています。父親は仕事から帰ってきて「家庭を養うために頑張ってきた、疲れた」という不快という貨幣を提示し、母親は「普段から家事という重労働をやりつつ、子供の面倒を見つつ、不満を口に出さず」という不快の貨幣を提示します。

 

子供の場合は、「ちゃんと学校で勉強してるし、しかも塾で遅くまでやってるよ」という貨幣を差し出す。三者三様の不快の貨幣を差し出し、それが多い人が大きな発言権をもつという仕組みになっている。

 

 

批評:不快という貨幣を使うことに対して

上記のことだが、正直誰も得をしていない。誰も勝利しないゲームはすぐに終わらせるべきだと思います。自分の所属しているコミュニティでこういったことがおこった場合、取るべき行動は

①そのコミュニティから逃げる

②そのコミュニティの中でも不快という貨幣をつかわないようにする

の2つに分別されるだろう。一時的なコミュニティであれば①は有効だが、コミュニティの範囲が家族となれば②を選択せざるを得なくなる。あえて3つ目の選択肢を出すならば、③コミュニティの価値観を自分の手で変えるというものだ。これには2つリスクがあり、自分がコミュニティから追い出されること、一時的に心理的なプレッシャーがかかるということが挙げられる。これをしてもいいのであれば3つ目の選択肢をとってもいいだろう。

 

 

改革しようという問題意識は間違い

よく「教育改革」という言葉が挙げられるが、下流志向によるとそれは意味がないという。著者いわく、根本の思想を把握せずにシステムのみを変えても意味がないという。消費主体である子どもたちを変えるのではなく、教育のシステムを変えるのでは根本的な問題は解決せず、また子どもたちは「それが何の役に立つのですか?」と聞いて大人たちを絶句させるという。

 

 

批評:教育改革に対して

これに関しては半分同意だ。子どもたちの根本的な考えを理解するというのはわかる。しかし、教育のシステムを最初に変えるのではなく、子どもたちが何を求めているかというを把握した上で、それに沿った教育のシステムを変えるべきだと思う。システムが先ではなく、人が先だ。

 

教育に子どもたちを合わせようとするのではなく、今の子供達のニーズに対して教育を合わせていくということだ。教育は1つが答えのものではない。数学の答えの求め方がいくつもあるように、子供が学ぼうとする姿勢をつくる施策は1つではない。

家入一真さんのところへ1日かばんもちできることになった話

 

言ってる人には言ってるんですが、僕めっちゃ家入さん好きなんですよね。スティーブ・ジョブズみたいなゴリゴリの起業家が多い一方で、友達に手紙を書くようにサービスを作る概念とか起業家のイメージと少し違うなんか残念な感じとか、僕の中の起業家のイメージを広げてくれた人です。最初はTwitterで見つけて「この人おもしろい!」とフォローしたんですが、見れば見るほどおもしろかった。

 

 

 

僕はこういうポエムに心動かされる方なので本とかも買って読んでみたりしました。

 

めっちゃおもしろい思想もってるなあ話してみたいなあと思い続けてたんですが、

年末にNPO法人ETIC.さんの忘年会に参加させていただくことなりまして、そこで

「家入さんめっちゃ好きなんですよね」と言ってたら、どすこい起業家っていう1日カバン持ちプログラムってのがあって、そこに家入さんがいるから申し込んだらどうかと言われ、はりきって応募しました。

項目が3つくらいあったんですが、そこに400字くらいずつびっちり埋めました。

受け入れてくれる起業家の方は何人かいたのですが、

 

第一希望 家入一真さん

第二希望 家入さん

第三希望 一真さん にしました。

 

ETIC.の方に本当にこれでいいのかと電話をいただいたのですが、

もし選考で通ったときに何も知らない状態でいくのは失礼だと思ったのでそのままにしてくださいと言いました。

 

 

そしたら先日、 審査の結果、原沢さんには、ぜひプログラムの方に...というメールをいただきました。ですので、家入さんのもとへ行くことができます。

 

 

家入さんと会いたいなあ話をしてみたいなあと半年くらい思っていたので、思いを口にしたら現実になるもんだなあというのをあとから体感しました。やっぱりなんでも言ってみるもんだなと思います。

 

 

 

僕がこのメールをいただくまでに、忘年会に誘われなければまず行かなかったし、忘年会にでて僕が「家入さん好きなんですよね」と言っても紹介してくれなかったらこのプログラムがあることすら知らなかったと思います。忘年会に誘ってくれた方とこのプログラムを紹介してくれた方には感謝しています。あと、わけの分からない希望に対してきちんと確認の電話をしていただいたETIC.さんにも感謝しています。