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がんばります。

下流志向 2章「リスク社会の弱者たち」を読んだ|自己決定・自己責任論とは?

自己決定・自己責任論

下流志向の2章では、自己決定・自己責任論が主題で話が進んでいく。教育機関が「たくましく・しなやかな個」を目指すことで「リスク化・二極化」が進むことを喚起している。

 

リスク化とは、将来どのように生きていけるのかというのを見通せる可能性が低くなり、努力に対してのリターンがどれくらいになるのかの予測がつかないことにある。

 

二極化とは、努力するもの・努力せざるものの差が大きく開いていくということが挙げられている。

 

 

リスクに対する認識

リスクをテイクする、リスクをヘッジするという言葉がリスクという言葉にはよくつく。リスクをテイクするとは0から+を生み出すような言葉で、リスクをヘッジするとは0からーにならないように施策を打つという意味合いになる。

今の時代では、リスクをヘッジすることができてないと著者は言っている。リスクをヘッジするには1人では不可能であり、丁半博打で丁と半どちらにも張るという意味。+にはならないけどーをふせげればいいというのがリスクヘッジをする前提だ。

 

リスクに対する認識が、社会階層毎に変わってくるというのがこの話の要であろう。「学力そのもの」ではなく、「学力に対する信憑性」が社会階層ごとに変わってくると、その刷り込みが結果として大きな差を出すということだ。

 

学力に対する信用性は主に親からの刷り込みである。学力なんてなくても生きていけるという考え方、学力があればなんでも出来るという考え方どちらかの考えが子供を支配し、主に社会階層の高い親は前者を唱え、社会階層の低い親は後者を唱えるという。

 

 

リスクについて

前者、後者ともに唱える親がいることは間違いないだろう。しかし後者を唱える親は大抵の場合、どうしたらいいのかのロジックを持ち合わせていない。代替案はないが「私が生きてこれたから大丈夫だろう」というロジックで物を言っている。

人間は基本的に楽をしたいと思う生き物だ。子供も「それでいいのか」となって努力をしなくなる。親の刷り込みによって子供が努力しなくなるという現象は珍しくないことだと考える。選択肢が増えたが、根拠なしで話をしてしまう人が被る被害だろう。

 

 

 

構造的弱者の出現

リスクヘッジは集団として生き残るという目標に対して動ける人たちが受け入れられることだ。それはつまり一人で責任を取ることとは全く違い、自己決定し、自分で責任を取るというのはリスク社会が弱者に対して強要する生き方と言っている。

 

つまり、周りに助けられる構造(セーフティネット)が用意できない人は自己責任を押し付けられ、その生き方を強要することになります。戦後日本社会ではそんなことはあまり起こらず、誰か一人のリスクをより大きなコミュニティ全体が責任を負うという形でリスクをヘッジしてくれていた。

 

 

「迷惑かけてないんだから、ほっといてくれよ」

この言葉を言う若者はいくらでもいる。しかし、これにはもう少し複雑な意味が含まれている。「迷惑をかけてないんだから、」という言葉には「お前も迷惑をかけるなよ」という意味も含まれている。

迷惑をかけていないから何をしてもいいと言って自分の反省をせず、しかも後々助けとなるかもしれない外界との関係を自ら断っていることになる。構造的弱者は自己決定・自己責任論に踊らされ、リスクヘッジできなくなる。

 

 

学力低下は努力の賜物

構造的弱者は「自己責任」を掲げ、今現在の自分を正当している。学校での学力での成功を否定し、将来の自分よりも現在の自分を見つめることにより、自分の有能感をたかめている。しかもこれは、怠惰によってもたらされたものではなく、努力して自分らしさを見つけることで産んだものである。

 

 

 

「迷惑かけてないんだから、ほっといてくれよ」について

これについては、この言葉を言うやつの頭が悪いと考える。少なくとも存在するだけで相手の頭を悩ませているし、迷惑になっている。全ての基盤は与えられたものであるのに自己決定していると思いこんでいる。基盤がある上で使えるものは全て使うべきだと考える。

 

思考や感受性が貧しい者は弱者であるのは世の理だと思う。今の時代では構造的弱者だが、これが社会の産物かもしくは個人に帰依すると考えるのかは自由だが、私は後者だと考える。

 

 

yosui.hatenablog.com

 

下流志向 1章「学ばない子どもたち」を読んだ

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「それが何の役に立つのですか?」

本・下流志向では、あるキーワードが頻発します。子供達がよく言う「それは何の役に立つのですか?」という問いです。これは小・中学校で先生に対してよく言う言葉でした。この言葉には色々な意味が内包されているということを著者は述べていきます。

 

 

消費主体であることの危険性

「それが何の役に立つのですか?」という言葉は、下流志向では子どもたちが消費主体であることを象徴している。消費主体であるということを著者は危惧しています。消費主体であるということは、「私は時間というものを払います。そちらはなにを払ってくれますか?」という言葉・態度を学校で使用するということです。つまり、「見合ったものを提示しなければ買わないよ」ということを示唆していることになります。

 

タバコを吸う若者が、目の前に証拠があるにも関わらず「吸ってねえよ」と言うことや、がんばって授業を聞かない生徒がいるということは全てこの”消費主体”にあると言っています。

 

金の全能性

著者は子供が消費主体になってしまう原因を幼少期に金の全能性を知ってしまうことにあると論じています。スーパーやコンビニエンスストアで、金さえ払えば年齢や性別などは何も関係なく、同一のサービスを受けることができます。子供はそこで「普段とは違う経験」をすることにより、消費主体としての自己が形成されていくというのです。

 

労働主体というものもあるのですが、現代では電化製品が発達し、母親の仕事は減ったため、子供が何かを手伝おうとしても「なにもしなくていい」という指示が下ることがあるため、労働主体が育たず、消費主体としての自分が主になってくるというのです。

 

 

消費主体が教育まで影響する

何かを支払い、受け取るという行動に慣れた子供は、教育の現場でも同じことを言います。それが大人(先生や親)を困らせる事になります。

 

 

批評:消費主体であることは本当に危険なのか?

たしかに金の全能性を早期に知るということは子供が消費主体になってしまう危険性を秘めていると思いますが、悪いことだけではないと思います。大人が金の概念を知り、子供にたいしてマネーリテラシーを身につかせることによって、金を増やすための労働主体という風に転換できると思います。アメリカでは幼少期から金をもたせることによって金との距離を近づけるそうです。アメリカのGDPと関連があるのかは不明ですが、少なくとも消費主体になって嘆かれるよりもいいと考えます。

 

 

 

批評:消費主体としての質問が知恵を生むかもしれない

消費主体の子供の質問は基本的に「これをどうしてやるのか?」という質問です。これはもう少し進むと、「これでない選択肢はないのか?」という問いに変わります。「もっと楽に、これと同じ効果をもたらす方法」を考え出した子供は、全てから物事を学びだします。孔子は、君子は全てから学ぶといった格言を残しています。消費主体であったとしても、考えを深めればかなり有効な知恵に変換されると考えます。

 

 

不快という貨幣

下流志向では、消費主体の人が集まる家庭では「不快」が貨幣として扱われていると論じています。父親は仕事から帰ってきて「家庭を養うために頑張ってきた、疲れた」という不快という貨幣を提示し、母親は「普段から家事という重労働をやりつつ、子供の面倒を見つつ、不満を口に出さず」という不快の貨幣を提示します。

 

子供の場合は、「ちゃんと学校で勉強してるし、しかも塾で遅くまでやってるよ」という貨幣を差し出す。三者三様の不快の貨幣を差し出し、それが多い人が大きな発言権をもつという仕組みになっている。

 

 

批評:不快という貨幣を使うことに対して

上記のことだが、正直誰も得をしていない。誰も勝利しないゲームはすぐに終わらせるべきだと思います。自分の所属しているコミュニティでこういったことがおこった場合、取るべき行動は

①そのコミュニティから逃げる

②そのコミュニティの中でも不快という貨幣をつかわないようにする

の2つに分別されるだろう。一時的なコミュニティであれば①は有効だが、コミュニティの範囲が家族となれば②を選択せざるを得なくなる。あえて3つ目の選択肢を出すならば、③コミュニティの価値観を自分の手で変えるというものだ。これには2つリスクがあり、自分がコミュニティから追い出されること、一時的に心理的なプレッシャーがかかるということが挙げられる。これをしてもいいのであれば3つ目の選択肢をとってもいいだろう。

 

 

改革しようという問題意識は間違い

よく「教育改革」という言葉が挙げられるが、下流志向によるとそれは意味がないという。著者いわく、根本の思想を把握せずにシステムのみを変えても意味がないという。消費主体である子どもたちを変えるのではなく、教育のシステムを変えるのでは根本的な問題は解決せず、また子どもたちは「それが何の役に立つのですか?」と聞いて大人たちを絶句させるという。

 

 

批評:教育改革に対して

これに関しては半分同意だ。子どもたちの根本的な考えを理解するというのはわかる。しかし、教育のシステムを最初に変えるのではなく、子どもたちが何を求めているかというを把握した上で、それに沿った教育のシステムを変えるべきだと思う。システムが先ではなく、人が先だ。

 

教育に子どもたちを合わせようとするのではなく、今の子供達のニーズに対して教育を合わせていくということだ。教育は1つが答えのものではない。数学の答えの求め方がいくつもあるように、子供が学ぼうとする姿勢をつくる施策は1つではない。

家入一真さんのところへ1日かばんもちできることになった話

 

言ってる人には言ってるんですが、僕めっちゃ家入さん好きなんですよね。スティーブ・ジョブズみたいなゴリゴリの起業家が多い一方で、友達に手紙を書くようにサービスを作る概念とか起業家のイメージと少し違うなんか残念な感じとか、僕の中の起業家のイメージを広げてくれた人です。最初はTwitterで見つけて「この人おもしろい!」とフォローしたんですが、見れば見るほどおもしろかった。

 

 

 

僕はこういうポエムに心動かされる方なので本とかも買って読んでみたりしました。

 

めっちゃおもしろい思想もってるなあ話してみたいなあと思い続けてたんですが、

年末にNPO法人ETIC.さんの忘年会に参加させていただくことなりまして、そこで

「家入さんめっちゃ好きなんですよね」と言ってたら、どすこい起業家っていう1日カバン持ちプログラムってのがあって、そこに家入さんがいるから申し込んだらどうかと言われ、はりきって応募しました。

項目が3つくらいあったんですが、そこに400字くらいずつびっちり埋めました。

受け入れてくれる起業家の方は何人かいたのですが、

 

第一希望 家入一真さん

第二希望 家入さん

第三希望 一真さん にしました。

 

ETIC.の方に本当にこれでいいのかと電話をいただいたのですが、

もし選考で通ったときに何も知らない状態でいくのは失礼だと思ったのでそのままにしてくださいと言いました。

 

 

そしたら先日、 審査の結果、原沢さんには、ぜひプログラムの方に...というメールをいただきました。ですので、家入さんのもとへ行くことができます。

 

 

家入さんと会いたいなあ話をしてみたいなあと半年くらい思っていたので、思いを口にしたら現実になるもんだなあというのをあとから体感しました。やっぱりなんでも言ってみるもんだなと思います。

 

 

 

僕がこのメールをいただくまでに、忘年会に誘われなければまず行かなかったし、忘年会にでて僕が「家入さん好きなんですよね」と言っても紹介してくれなかったらこのプログラムがあることすら知らなかったと思います。忘年会に誘ってくれた方とこのプログラムを紹介してくれた方には感謝しています。あと、わけの分からない希望に対してきちんと確認の電話をしていただいたETIC.さんにも感謝しています。

「おもしろいやつ」が大好きなやつらに物申す

 

「おもしろいひと」「おもしろいこと」

「おもしろいこと」「おもしろいひと」が好きな人、いると思います。自分にとっておもしろい人が周りにいればそりゃ楽しいですよね。おもしろい人って多種多様。

 

僕は今日ヒトと変わってることが面白いと思ってるやつに物申したい。

 

この世には2種類の人間しかいない。

この世には2種類の人間しかいない。本当に変なやつと普通のやつ。

1つめは本当に変なやつ。自分で気づいている場合もあれば、他人から指摘されまくってるやつもそう。類は友を呼ぶって感じの出会い。お互いに変なところをディスりあうことがある。

2つめ。そう、僕が物申したいのはこの2つめのパターンのやつ。こいつら。普通の人のポジションのまま近づいてくる人たち。別に変なやつしか近づいてほしくないとはいってない。仲良い人は多いほうが良いと思うし、仲良くしたい。仲良くしてくれて感謝ですまじで。

 

 

少数派であることはいいんだ、、でもな、、、

2つめのパターンのやつ、こいつらに物申したい。お前らにはわからんだろうが、すごく悲しくなることがあるのを知ってほしい。

 

もう何かの議論で意見が違うことは慣れたんだ。それはわかった。

 

でもやっぱ「ああ、みんなと違うのか、、、」と思うことが心のどこかである。慣れてるんだけど、どこかでわかり合いたいたいなと思うことがある。人それぞれの主張と意見があって当たり前だし、それでいい。

でもその時、少数派の意見を「なんかおもしろいこと言ってる!」って寄ってくんのやめてくれ。ああ、こいつにはわかるのか!!って勝手に舞い上がるけど、後でその意見はただ迎合されただけとわかるととんでもなく悲しい時がある。

そこはノリじゃなくてロジックを通して理解してほしい。いや、理解しなくてもいいから迎合してくんな。

 

 

 

そんな僕もおもしろいやつが好き

こんなん言ってるけど僕もおもしろいひとが大好きだ。普通なんだけど狂気を感じる人って形容するといいかもしれない。

 

 

変なやつといるとその場はもとから価値観のぶつけ合いから始まるから、お互いのことを考えながら自分の意見を言う傾向にある気がする。あと、「おもしろいひと」って幼いころから"周りが自分と違うこと"に慣れてるから、変化を受容しやすい傾向にある気がする。

 

でも決して迎合はしないようにしている。自分の信じる正義とぶつけてみる。そうするとまた面白いものが見えてきたり、新しい価値観に出会えたりする。だから変なやつ、頭おかしいやつ、トチ狂ったやつが大好きだ。そういう人に恵まれてる気がするので、まず周りにいる人は大事にしたい。

働いててたのしそうな大人の何人かに会ってきた

 

最近アポ取りまくって20日後くらいまで予定がギッチリ埋まっているようになった。

 

人に会う理由は2つで、

①色んな人と会いたいから

②自分の思考のブラッシュアップがされるから

だ。

 

①は話すことが好きだからだけど、②は自分の部屋にこもって1人で考え込むよりも、自分の抽象的な部分を人に形容してもらったほうが自分としても楽だし、自分で話してて自己完結するなかで、自分の言いたいことが整理されるということに最近気づいたからだ。

 

特に最近は社会人の方にアポをとって時間をいただいて話すようにしている。だいたいの学生が就活相談するなかで、大学1年生が働き方とかやりたいことを話したり聞いたりするのでテンプレ的な答えがなくてやりにくいかもしれない。でも優しい社会人の方は結構いて、真摯に答えてくれる人が多いように感じる。こんな学生に時間をさいていただいているので、ホントにありがたいです。

 

もちろんMatcherとかで話しを聞いてくれる大人の方はリベラルな方が多いはずなので、これは完全に偏見かもしれないけど

 

 

自分で働き方を選んでる人は楽しそう。

 

 

実際に大人の人に会ってみて感覚で思ったことだ。企業に勤めながら個人事業主をやっている人がいたり、自分がおくりたい人生から逆算して働く人はいる。自分のライフスタイルから選択している人は共通して楽しそう。

 

大人全てがつまらないのではなく、楽しそうに働く大人がいる一方でこんな大人にはなりたくないと思われるような大人もいるんではないかと思った

 

 

色んな業界の大人の方に会って話をして、楽しそうな仕事の話をめちゃめちゃ聞きにいきたいと思ってます。学生から見た日本の社会人お先まっくらのイメージが強いから、楽しく働いている社会人の方と話して、仕事が楽しいということが分かったらそれをみんなにシェアしたい。

はてブを始めてしまった

livedoor、ラインブログ、そしてはてブに来ました。ブログはためたほうがいいとわかりきったところでの変更です。ああ、、落ち着かないなあ、、